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ロベール1世 (バル公) : ウィキペディア日本語版
ロベール1世 (バル公)[ろべーる1せい]
ロベール1世Robert Ier de Bar, 1344年11月8日 - 1411年4月12日)は、フランス北東部の諸侯。バル伯(1352年 - 1354年)、バル公(1354年 - 1411年)、(1353年 - 1411年)。
== 生涯 ==
バル伯アンリ4世とその妻の間の三男、末息子として生まれた。母はフランドル伯ロベール3世の次男の娘である。誕生直後に父が亡くなり、兄エドゥアール2世が母の摂政の下で家督を継承した。幼いロベールと兄エドゥアール2世が四旬節の時期に病気になった際、心配した母は、クレメンス6世教皇より肉食を許可される特免を出してもらっている。
1352年に兄が死ぬと、ロベールは7歳で伯爵家の家督を継ぐが、母が引き続いて摂政を務めた。だが直後に母がロングヴィル伯フィリップと再婚すると、母の摂政の地位は不安定になった。ロングヴィル伯は、ヴァロワ家フランス王ジャン2世の王位に異議を唱えるナバラ王シャルル2世(悪人王)の弟という問題のある人物だったからである。大叔母のサリー伯夫人が、ヨランドに代わって自らが甥孫の摂政に就くべきであると、ジャン2世に打診した。1352年6月5日、パリ高等法院はバル伯爵領を王の監督下に置くことを宣言した。ジャン2世は同年7月27日にはサリー伯夫人ジャンヌを摂政に任命した。ヨランドは最初は摂政を自ら退く姿勢を見せたが、すぐに態度を翻し、ジャンヌと戦うために兵を募り始めた。このためジャン2世は軍を差し向け、1353年7月2日、ヨランドに再び摂政の地位を退かせている。
1353年、ロベールは神聖ローマ皇帝カール4世により、バル伯位よりも上位のポンタ=ムッソン侯(辺境伯)に叙せられた。このため文書には「marquis de Pont-à Mousson et comte de Bar」と署名するようになるが、これはバル伯領の貴族層にとっては不合理なものに思われた。ポンタ=ムッソン侯領よりもバル伯領の方が、明らかに強大だったからである。この変則的な状況を解決するため、カール4世帝は1354年3月13日にバル伯領を公爵領に昇格させることを決めた。
1356年9月19日、ポワティエの戦いでジャン2世がイングランド軍の捕虜になると、後ろ楯を失った大叔母ジャンヌは摂政を退けられ、母ヨランドがロベールの摂政に復帰した。ロベールは同年12月に騎士叙任を受け、1359年11月8日に親政を始めた。ロベールは1364年5月14日に行われたシャルル5世ランスでの戴冠式、1380年11月4日のシャルル6世のランスでの戴冠式をそれぞれ金銭的に援助した。また、シャルル5世が1374年に行ったイングランド軍をノルマンディー地方から駆逐するための遠征にも、何度か参加している。
1401年、ロベール1世は存命中の最年長の息子エドゥアールを後継者に指名した。これはロベールの早世した長男アンリの息子ロベールの相続権を無視した決定だったため、孫のロベールは異議を唱えたが、パリ高等法院は孫ロベールの訴えを1409年までに退けた。
シャルル6世の狂疾がひどくなり、オルレアン公ルイブルゴーニュ公ジャンが国の主導権をめぐって対立すると、ロベール1世はオルレアン公を支持し、彼がブルゴーニュ派に暗殺された後も親オルレアン派であり続けた。晩年は痛風に苦しみ、歩行困難になった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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